「知識偏重」教育への批判に対する違和感
これまでの学びや試験が「知識偏重」と批判されるのをよく見かける。
知識を多く持っているかどうか、つまり暗記を頑張ったかどうかで評価されるのはおかしいというものである。
このような考え方を元に、学校での学び方が変わったり、入試内容が変わったりすることに疑問を感じている。
もしこれまでの学びが暗記だけだったなら確かにそうだと思うが、私はその本質は暗記では無かったと思っている。
確かに学習にはまず知識ありきである。
しかし、知識どうしが結びついていないと役に立たない。
積み重ねただけのブロックのように、簡単に崩れてしまう。
大事なことは、新しい知識が入ってきたときに既に持っている知識とどのように関連しているのかという、
知識と知識を結び付ける意識を持つことが大切である。
それによって知識と知識がまるで炭素と炭素が固く結びつくダイヤモンドのように揺るがない知識体系になり、
一つの知識から必要な知識を芋ずる式にいつでも引き出せるようになり活用もできるようにもなる。
ある物事についての知識体系が一旦確立されたら、
その体系の中にある追加の知識は知識体系の微調整や確認になるだけで、あまり必要無いと考えていた。
私は約30年前に大学受験をしているが、この時も私はそういう意識で勉強に取り組んでいた。
知識を取り込み知識体系を作り、原理を理解していくという意識である。
30年前と言えば、彼らが言う「知識偏重真っ只中」なのだと思うが、
知識の量で合否を決められるのであれば、間違いなく私は東京大学に合格していない。
入試問題は多くの知識を持っているかではなく、
どれほど学習内容の本質、原理の核心を理解しているかを問う良い問題で、生半可な理解を跳ね返すものだった。
だから、これまでの大学入試が「知識偏重だった」という批判は不適切だと思っている。
このような意識で勉強することが「知識偏重」と言われることに違和感を持つのは私だけだろうか。
勉強とはいかに知識を多く蓄えるかではなく、自分の中の知識体系を作り上げたり、
物事の原理を正しく理解したりすることだと思う。
少なくとも当教室の生徒にはそのような意識を持ってもらいたい。